TANUKI夫婦の古社寺巡り 西の京 山口の古社寺(古社編)
 
古寺古社とは、ちょっと離れますが・・・・『西の京』と呼ばれる山口と『大内氏によって築かれた文化』『フランシスコ・サビエルによるキリスト教伝来・日本最初のクリスマス!』などは外せないものですので、あえて1ページ作りました
焼失前のサビエル記念聖堂 聖堂前で天使幼稚園運動会 現在の記念聖堂
サビエル記念聖堂 全景 井戸の前で布教中のサビエル像 平和の鐘
サビエル記念聖堂 フランシスコ・サビエルがキリスト教の布教のため山口を訪れてから400年を記念して建設された聖堂で、聖堂内はサビエルの一生を描いたステンドグラスで飾られていました。パイプオルガンの演奏会なども行われ、聖堂の尖塔からは15分おきに時を告げる鐘音が市街に響いていましたが、1991年(平成3年)9月5日に焼失してしまいました。
6年後の1998年(平成10年)4月29日、新しい記念聖堂が再建されています。

TANUKI にとってサビエル記念聖堂と言えば焼失前の物しか思い浮かびません。小学生〜中学生の頃はまだ町も静かで、我が家にもサビエル記念聖堂の鐘の音が聞こえていました。高校は聖堂からほど近い場所でしたから、聖堂の鐘の音を時計代わりにしていました。我が家の2人の息子は天使幼稚園に通い(・・・・と言っても、TANUKI 夫婦はクリスチャンではありませんが・・・・あ、それと娘は、転勤や引っ越しなどの関係で違う幼稚園に通わせました)何かにつけて聖堂を利用させていただきました。聖堂のパイプオルガンの音もとても素敵でした。とても静かで心が落ち着くような音色だったと覚えています。
現在、そのパイプオルガンは隣町の教会にあると聞いています。焼失したのは焼失前に新しくしたパイプオルガンだったと聞いていますが・・・・前のオルガンのその後については情報不足で何も分かりません。
1991年9月5日夜、我が家からも丘の上の聖堂が火に包まれているのが見えました。(今では、高いビルが多く建ってしまい、尖塔の先すら見ることはできませんが・・・)。特に尖塔が真っ赤な炎を上げて焼け落ちた瞬間・・・・ものすごくショックで言いようのない喪失感を覚えました。今でもよく覚えています。
サビエル記念碑
大内義長の許可状碑 許可状 ヴィリヨン神父像
「日本で最初のキリスト教会」とされている場所です。
室町時代、山口を拠点に西日本に勢力を誇った大内氏31代義隆が、天正年間に山口を訪れたフランシスコ・サビエルに布教許可と宿舎を兼ねた説教所として、当時廃寺だった大道寺を与えたとの記録があります。この「サビエル記念公園」は、その大道寺跡と言われている場所です。ザビエルはこの大道寺で1日に2度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったと言われています。
その後、サビエルは仲間の宣教師に後を託し山口を去りますが、残った神父トルレスに大内義隆が建て直しの許可を与え、日本最初のキリスト教教会となります。

日本のクリスマスは山口から始まった!
1552年(天文21年)旧暦12月9日(西暦12月24日)、トルレス神父にとっては来日して4回目のクリスマスだったそうですが、この日初めて日本人信徒を招いてクリスマスの祝いをしたそうです。このことから、この日が「日本初のクリスマス」と言われています。
大内義長からの許可状の碑
天文20年(1551年)9月、サビエルは弟子トルレスらに後を託し九州(豊後)へ去ります。
その後、陶氏の反乱により大内義隆が長門深川の大寧寺で自刃。陶晴賢は大友義鎮の弟を迎え大内義長と名のらせて大内家を継がせました。
この碑は、その大内義長がトルレスに寺院建立の許可を与えた書状を銅板にして記念碑としています。

読み方は・・・ちょっと自信はありませんが・・・

 
すおうのくに よしきごおり やまぐちあがたのだいどうじのこと
  周防の国 吉敷郡 山口縣の大道寺の事
 
さいいきよりらいちょうのそう ぶっぽうしょうりゅうのため
  西域より来朝の僧、仏法招隆の爲
 
かのじかをそうけんすべき せいぼうのむねにまかせ さいきょせしむるところのじょう くだんのごとし
  彼の寺家を創建すべき、請望の旨に任せ 裁許せしむる所の状 件の如し

吉敷郡とは、現在の山口市(徳地・阿東を除く)、宇部市の一部と防府市の一部だったようです。
ヴィリヨン神父
この「サビエル記念公園」の地を大道寺跡だと推定したのは、1889年(明治22年)に山口天主公教会に赴任したフランス人「エメ・ヴィリヨン(Aime Villion : 1843〜1932)」神父だそうです。山口に赴任後、サビエルの遺跡である大道寺跡について調べ、光福寺の僧が所蔵する古地図に「大道寺」の書き込みがあることを見つけたと伝えられています。現在、その原図は所在不明になっていて、複数の写本(『大内氏時代 山口古図』)のみが現存しています。
TANUKI は、この古図については『西の京 山口市の古社寺 古寺編 2』に書きましたように・・・・地図に記載されている寺院等の信憑性に疑いを持っています。江戸時代初期、あるいはそれ以降に現在の位置に移転したはずの寺院が書かれていたり・・・・。地図が作られた時代が、かなり後(例えば江戸期、それも明治に近い時代・・・・)で、そのような寺院などの歴史的な調査に基づかない物ではないかと疑われます。
では大道寺の場所はと言われると・・・・地図としての信頼性は低いと言わざるを得ませんが、この地図に代わる資料がないのもまた事実です。さらなる研究者の方々の発見を待ちたいと思います。