TANUKI夫婦の古社寺巡り 西の京 山口の古社寺(古社編)
 
山口大神宮
山口大神宮 石鳥居 山口大神宮 外宮 山口大神宮 内宮
鴻の峰登山道 いろいろな神様が 中腹の小太郎稲荷 奥宮?アマテラスを祀る岩戸社
TANUKIの住む町では最もメジャーな神社です。山口の古社寺は、その多くが室町時代に中国地方に勢力を持った大内氏に縁があります。山口大神宮は、永正17年(1520年)大内氏30代目の大内義興が伊勢神宮の神霊を勧請して創建したものです。
永正5年(1508年)6月、大内義興は足利将軍家の内紛により山口に逃げてきた前将軍・足利義稙を奉じて上洛し、以降11年間京都で管領代として幕政を執行し、その際に伊勢神宮から分霊を移したと言われています。以降500年、伊勢神宮同様に外宮、上宮で式年遷宮が続いています・・・・つまり、伊勢神宮を分霊した最初の神社ってことです。それまで例のなかったことを、圧倒的な権力で「ごり押し」したってことでしょうけど・・・・大内氏がいかに強大な勢力を持っていたのか窺い知ることのできる神社です。当時、伊勢の神霊を迎えた神社は山口大神宮だけです。そのため、九州や西国の各地から大勢の参拝客があったと伝えられていますが・・・・現在は、とても静かな神社です。ただ、初詣は・・・・県庁を始め周辺の県の施設が駐車場になりますが、それでも渋滞しますし、鳥居から拝殿までの長い階段も狭いので、長蛇の列ができて・・・・参拝するのも、なかなか大変です。
大神宮は、標高338mの「鴻の峰」の麓にあります。鴻の峰の山頂には、大内義長が築城した高嶺城跡があり、石垣や井戸が残っています。「鴻の峰」「鴻城」は、幕末の長州奇兵隊の隊名や私立の高校名、市内の学校の校歌にも歌われるなど、山口のシンボルのような山です。外宮の前から登山道が延び、中腹にはお稲荷さん、奥宮と思われる天照大神と天之手力男神を祀り、天岩戸を模したような岩窟があります。その参道(登山道)にはたくさんの神様が祀られています。半世紀以上前、TANUKI が子供の頃に、大神宮から鴻の峰の八合目付近に向かって点々と明かりが灯されていたのを自宅から見ていた記憶があります。きっと、何らかの縁日など、多くの方が山を登って参拝しておられたのだろうと思われます。しかし、今は灯明もありませんし、たまに登山客を見かけるぐらいで、参道は相当に荒れています。
八坂神社
初詣で賑わう八坂神社 八坂神社 拝殿と本殿 八坂神社 本殿
14世紀後半の室町時代、大内氏24代 大内弘世が本拠を大内館(現 山口市大内御掘地区)から山口(現 山口市大殿地区)へ移転。
京都を模した町づくりを行い、以降の大内文化の基礎を築いたと言われています。また、京から迎えた姫を慰めるため、都から漆塗り職人を呼び寄せ造らせた漆器の人形「大内人形」は、現在でも夫婦円満の人形として山口の伝統工芸品になっていますし、一の坂川を京都の鴨川に見立てて、宇治からゲンジボタルを取り寄せ放したと伝えられています。山口の観光スポットとして親しまれている天然記念物「ゲンジボタル」は、地域の「ホタルを守る会」の方々が飼育と保護に尽力されています。また小学生によるホタルの放流も行われ、5月下旬〜6月上旬には一の坂川両岸にホタルの乱舞を見ることができます。
このように、西の京と呼ばれる、京都を模した町に造ったのは大内弘世というのが、山口に伝わる伝承なのですが・・・・最近、発掘調査が進み、その結果・・・・大内弘世の時代には、山口が都市化されていないとのことです。ま、このあたりは・・・・さらなる発掘調査を待ちたいものです。
いずれにせよ、そのように京都からいろいろな文化を取り入れていく過程で、京都から勧請し山口の鎮守社としたのが「八坂神社」です。もちろん祇園祭も・・・・。TANUKI が子供の頃は、とても賑やかなお祭りだったのですが、一時は御神輿を担ぐ者もいないような寂しい状態になりました。しかし、多くの方々の努力で、再び「七夕提灯」と共に山口の夏を代表する祭りになっています。
で、神社ですが・・・・社殿は三間社流造り。屋根は檜皮葺で、本殿周囲には13個の変化に富んだ蟇股などがあり、室町時代の特色を残していると言われています。本殿は、室町時代後期(1520年)に建立された物だそうです。
古熊神社 ( 古熊天神 )
階段の先に古熊神社 社殿 古熊神社 山口駅近くにある福部童子の祠
天神祭 備立(そなえたて)行列 網代車、昔は牛でしたけど・・・ 花神子 後ろに宝恵籠が続きます
神社を出てアーケード街を通り、駅道りで最後の備立行列所作のパフォーマンス!
菅原道長公とそのお子さん福部童子を祀る神社です。この神社も室町時代の大内氏24代大内弘世(おおうちひろよ)によって、京都の北野天満宮より勧請し、現在の中市町、山口井筒屋デパート周辺に「北野天神」として社殿を造営したと記録にあります。
その後、1618年に毛利秀就が1km程度離れた現在の場所、東山(これも京都を模した名前ですが・・・・)の麓に社殿を移し現在に至っています。
古熊神社は天神様(菅原道真公)を祀ると共にそのお子さんである福部童子を祀っていることが特色です。福部童子とは、道真公の23番目のお子様で、太宰府に左遷された父親に会うため大宰府へ向けて旅立ちますが、道中で周防国山口にて、夏の疫病のため亡くなられ、不憫に思われた山口の方々によって手厚く葬られたようです。現在、山口駅近くの山口病院の側にお墓が建てられ、今市町内会の人々の手で大切に祀られています。
毎年秋に行われる古熊神社の御神幸祭「山口天神祭」は、山口三大まつりの一つに数えられる祭りで、江戸時代、毛利氏が行列の警護を行っていたことに由来するとされる弓や槍などの武具を持ち、御先乗とともに道中の露払いをする備立行列(そなえたてぎょうれつ)を先頭に行列が「いさよーし」のかけ声と共に町を練り歩きます。

注) 「いさよーし」のかけ声。県内の大名行列で使われているようです。「いさよーし」「よいとまかなー」・・・・これの意味は? ローカルのミニコミ紙などによると「潔く素直な心でお出迎えしよう」などと解説されていますが・・・・TANUKI としては、日本書紀などに記載のある『功(いさを)し』・・・・「清(いさぎよ)く正しいしぐさ」と言う意味から後の世に派生した「勇ましい・雄々しい、手柄を立てる」などの意がしっくりくるのですが・・・・。
今八幡宮
今八幡宮 旧市街地の外れ、小高い丘の上に・・・
楼門と拝殿が一体化している このような造りはこの地方独特の形とか・・・ 今八幡宮 本殿
大内氏29代、大内政弘が山口の鎮守と定めた神社で、大内氏が崇敬した神社と伝えられています。
創建年は不明ですが・・・・研究者の間では、鎌倉時代の弘安年間に大内弘成の娘の名前に「今八幡殿」という記録があることから、それ以前の創建ではないかというのが定説になっているようです。「今」には「新しい」という意味があるので、「新しい八幡宮」という意味で「今八幡宮」と称したようです。
なお、文明 3年(1471年)に大内政弘が朝倉八幡宮を合祀(・・・・と記録されていますが、山口市朝倉町の兄弟山(おとどいやま)山麓にある朝倉八幡宮と同一の神社かどうか、まだ調べていません!)さらに、 文亀 3年(1503年)に大内義興が社殿を造り替えたと記録に残っています。また、幕末には社務所が諸隊の「八幡隊」屯所となっていたようです。
本殿は三間社流造。拝殿、楼門は一体化している造りで、この地方独特の形。本殿・拝殿・楼門はともに室町時代中期(15世紀末頃)の建立で、いずれも国の重要文化財になっています。