氷上山 興隆寺 天台宗 本尊:釈迦如来(座像)
山口市大内氷上(ひかみ)のやや開けた静かな谷間に佇むお社とお堂があります。大内氏の氏寺として、とても栄えたお寺だったようです。1486年(文明18年)には後土御門天皇の勅願寺にもなったようですが、大内氏の滅亡後、毛利氏となってから僧坊の多くは衰微したと記録に残っているそうです。
防長風土注進案(萩藩によって編集された地誌)によると、 江戸時代に行海僧正が興福寺を再興し、氷上山「真光院」と名前を変え、脇坊として宝乗坊(大日如来)・安楽坊(薬師如来)・常楽坊(阿弥陀如来)・安禅坊(阿弥陀如来)・宝積坊(阿弥陀如来)・妙泉坊(十一面観音)があり、この他に東照宮・観音堂・山王社・護摩堂などもあったことが書かれています。
明治の神仏分離令で寺領を失い、真光院も焼失。そのため宝乗坊を本坊としていたようですが、他の坊は廃退し、釈迦堂は龍福寺本堂に、東照宮は築山神社に、観音堂は山根観音堂に、山王社は御堀神社としてそれぞれ移築されています。その他の諸堂・神祠なども取り払われたり朽腐し、現在は妙見社と仏殿(旧中興堂)、「梵鐘」(鐘楼)、脇坊だけが残っています。
旧萩往還道から興隆寺方向に入ったところに4基の灯籠が建っています。灯籠から現在の興隆寺(妙見社)まででも400mはあろうかと思われます。おそらく、ここからずっと山に向かって伽藍が続いていたのだろうと想像すると・・・・もし、そのまま残っていたら・・・・明治維新、いや明治政府も罪な悪法を掲げてくれたものです!
興隆寺に残されている貴重な文化財について、山口市のホームページ(歴史文化資源)より抜粋すると・・・・
【 木造釈迦如来坐像 】(山口市指定有形文化財) 像高 112cmの坐像 檜材の寄木造り 玉眼 光背は二重円光
彩色は剥落が著しく、台座、光背は部分的に欠失しているが、像本体に後世の補修はなく、当初の状態をよくとどめている。
外見上の特徴と制作技法上の特徴から南北朝時代から室町時代にかけて、京都「院派」の仏師による制作と考えられる。
頭部内側から墨書銘が発見され、永正元年(1504)に大内義興が施主となって造像したこと、制作者として大仏師宗賢と作者院慶の名がある。室町時代彫刻の基準作としても、大内文化の歴史的な史料としても貴重な作例である。
【 梵鐘 】(国指定重要文化財) 総高 189cm、口径 111.8cmの大きな銅鐘 。朝鮮鐘の形式で、各所ににぎやかな装飾あり。四区の乳郭の間には四天王の像が鋳出されてる。銘文により大内義隆が1532年(享禄5年)に興隆寺に寄進したもので、筑前葦屋(福岡県遠賀郡芦屋町)の大江宣秀の製作とある。
【 氷上山扁額(へんがく) 】(山口県有形文化財) 縦 108cm、横 63cm木造扁額 文字は後土御門天皇の宸筆
そのほか『琳聖太子の剣・宝剣拵・付属文書』(山口県有形文化財) 『絹本着色両界曼陀羅図』(山口市指定有形文化財)『木造龍頭・舞楽面・獅子頭』(山口市指定有形文化財) が残されていると書かれています。
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