TANUKI夫婦の古社寺巡り 西の京 山口の古社寺古寺(古寺編)
 
No. 山 号 寺 号 宗   派 本   尊 備     考
円満山 本圀寺 本門法華宗 他宝如来・釈迦如来 西国における日蓮法華宗最初の道場
大乗峰 万徳寺 浄土真宗本願寺派 阿弥陀如来
荷葉山 正善寺 浄土真宗本願寺派 阿弥陀如来
瑞亀山 正福寺 浄土真宗本願寺派 阿弥陀如来 境内の「いぶき」は県指定天然記念物
大法山 常妙寺 日蓮宗 釈迦如来
永長山 性乾院 浄土宗 阿弥陀如来 明治4年 蓮台院・医王寺・長盛寺を統合
日照山 真證寺 浄土真宗本願寺派 阿弥陀如来
松林山 端坊 浄土真宗本願寺派 阿弥陀如来 藩政時代に時を司る役目を担った寺
観静山 西覚寺 浄土真宗本願寺派 阿弥陀如来
山口市の市街地、大市・中市・米屋町・道場門前の各商店街より一本南側の米殿小路・馬場殿小路(いずれも車は一方通行の狭い小路です)に沿ったようにお寺が一直線にずらりと並んでいます。それもほとんど浄土真宗のお寺です。多くの古寺が並ぶ様は独特の雰囲気を醸し出しています。この、ずらりと並ぶ古寺を取り上げたのは・・・・実は、TANUKI が感じている2つの疑問があるからです

《 疑問その1 》 このようにお寺が集まったのは、どの時代で・・・どのような経緯があったのか?

今回取り上げた8つの古寺の中には、いくつかの寺が廃寺となりそれらを統合した寺も含まれていますから、10数寺が並んでいたことになります。これだけのお寺が自然発生的に集まったとは考えにくいので、何らかの力が働いたのではないかと思われるのですが・・・・。
以前、万徳寺のご住職さんから「うちのお寺は元は天花(てんげ : 市内の北側、山間に位置し萩往還沿いの風光明媚な所ですが、現在は地区の大部分がダムに沈んでいます)にあったが、江戸時代にこの地に移転させられたらしい」という話をお伺いしたことがあります。また、万徳寺と山門を正対する正福寺の境内には県指定天然記念物の「いぶき」があります。この木は1607年(慶長12年)、この地に寺が移り堂宇を建立した時に植えられたたと伝えられています。
関ヶ原の戦いが1600年(慶長5年)、豊臣方の総大将だった毛利輝元がその領地を防長2州に押し込められ、萩に城を作るにあたり、山口に残る大内氏の文化遺産を破壊し、相当強引に町を作り替えたと思われます。例えば、山口市の観光の目玉、国宝の五重塔も元は香積寺ですが、この寺を萩に引寺して跡地に仁保から瑠璃光寺を移築。塔は萩に移築できず今日に残って山口の観光の目玉となっています。
萩城の完成が1608年ですから、その前後の時代にお寺を移転させたとすれば、先の万徳寺のご住職さんのお話や正福寺の「いぶき」の年代とも合致するような気がするのですが・・・・。
一方、室町時代の古地図・・・・1889年(明治22年)、フランス人宣教師エメ・ヴィリヨン(Aimé Villion)(1843~1932)によって発見されたとされる古地図『大内氏時代 山口古図』には、当時からの古刹「本圀寺」や今は廃寺となった「善福寺」は当然書かれていますが、「西覚寺」「端坊」などのお寺も今の位置に記載され、なんと「正福寺」も現在の場所に書かれています。この古地図を信頼するとすれば、大内氏の時代の町づくりに関係しそうですが・・・・先の正福寺の「いぶき」に関する言い伝えや「端坊」がその時代キリスト教の教会だったとの毛利家の記載とも矛盾します。この地図がいつの時代に書かれたのかも定かではありませんので、果たしてこの地図が信頼できる物かどうかも含めて、さらに調べてみる必要がありそうです。

《 疑問その2 》は「万徳寺・正福寺・正善寺」の項で・・・・
本圀寺 道場門前側の入り口は狭い! 日蓮様が迎えてくださいました 山門かな? と思ったのですが・・・
その奥に立派な 山門がありました 本圀寺 東側の通りに面した山門 本圀寺 本堂
2つの山門を守る四天王像が・・・・ 境内に「亀山幼稚園」
円満山 本圀寺 本門法華宗 本尊:他宝如来・釈迦如来

法華宗の古刹です。江戸時代、長州藩が編纂した地誌「防長風土注進案」(1842年、天保13年の成立)によると、一の坂川南側(現在の道道場門前1丁目)に時宗の『善福寺』(塔頭として法林庵・長慶庵・観音堂もあり)、町の西詰近く南側に『本門法華宗本圀寺』があることが記述されています。かなりの歴史を持つ古刹のようです。なお、善福寺は明治期に廃寺となっています。
本圀寺は1353年(文和2年)、この年は日蓮上人が立教開宗されたとされる1253年(建長5年)から100年目にあたり、西国(中国・四国・九州)で日蓮法華宗最初の道場として大内氏24代弘世公により武運長久の祈願所として創建されたそうです。

東側の道路に面した山門が本圀寺の入り口と思っていました。山門を入った正面に本堂がありますし・・・・。ある日、偶然に道場門前のアーケードにも山門があることに気づきました。アーケードの商店と商店との間の狭い路地でしたが、最初の門をくぐって次の山門までの細い道は、植物がアーケードのようにびっしりと覆い被さり、とてもすてきな参道でした。
境内には「亀山幼稚園」があります。100年の歴史を持つ、市内で最も古い幼稚園だそうです。
万 徳 寺 ・ 正 善 寺 ・ 正 福 寺
万徳寺 山門 万徳寺 本堂 万徳寺の鐘楼は門徒会館の屋上に
山門に花祭り 3寺交代の行事とか」 正善寺の山門の上は鐘楼のようです 正善寺 本堂
万徳寺に正対して正福寺 正福寺の本堂といぶき 樹齢400年のいぶきの木
万徳寺・正福寺・正善寺、いずれも浄土真宗のお寺ですが・・・何故このお寺?と言われると・・・実は、万徳寺はTANUKI のご先祖様が眠るお寺なのです。TANUKI 曾祖父がお寺の総代をしていて、今の御住職さんの曾祖父にあたる御住職さんと昵懇だったご縁で自分の墓を境内に作らせてもらったようで・・・・その後、TANUKI の父親が山陰の田舎からご先祖の墓を移し合祀しました。
ま、それはともかく・・・・この3寺は、「万徳寺」の正面に正対して「正福寺」、すぐ山口駅よりに「正善寺」と浄土真宗のお寺が3寺並ぶ珍しい場所です。以前、万徳寺の御住職さんが笑い話をしておられましたが『お寺での法要の時、参列者の中に見知らぬ方がおられ・・・・どなたなのかな~と、ずっと法要の間中考えていたら、法要が終わった後でその方が気づかれたようで、びっくりした顔で「お寺を間違えました・・・・お隣でした」・・・・と』。花祭りなどは3つのお寺の回り持ちでお祭りされているようで・・・・同じ宗派のお寺が密接してる「ある・ある」ですね。

昔、万徳寺の山門を入ったすぐ左に鐘楼があったのですが、今は撤去されています。あの鐘は・・・・どうなったんだろうと思っていましたら、門徒会館の屋上につるされていました。こんな高いところからだったら、鐘の音も遠くまで聞こえそうですね。

正福寺の境内にある「いぶき」の木は県指定の天然記念物・・・・1607年に植えたと記録に残っていますので樹齢400年を超えますね。見事な古木です。

《 疑問その2 》 善福寺の仏像はどこへ?

で・・・・前述の、江戸時代まで「本圀寺」と並ぶ古刹だった時宗の「善福寺」ですが、現在も残る「道場門前」という地名はこの「善福寺の門前」という意味なんだそうです。善福寺は今の道場門前1丁目にあった大寺院で塔頭として法林庵・長慶庵・観音堂があったとも長州藩の編纂した「防長注進案」に記されています。明治期に廃寺となったようですが、TANUKI が気になっていることがありまして・・・・善福寺のご本尊は「阿弥陀仏」と記述されているのですが、そのご本尊を含めて、お寺に多くあったと思われる仏像の行方です。
実は万徳寺のご本尊様は阿弥陀立像なのですが、光背が舟形光背なのです。浄土真宗の場合阿弥陀様の光背は放射光背ですよね。舟形光背の阿弥陀様といえば浄土宗・・・・善福寺は時宗ですから、まさに・・・・ま、そう簡単に歴史は解明できそうにもありませんが、周辺のどこかのお寺に善福寺由来の仏像が残っていると思われます・・・・引き続き何か記録された文献はないか探してみたいと思っています。
常妙寺 山門 常妙寺 本堂 常妙寺 足利尊氏の腰掛石?
常妙寺 観音堂 性乾院 山門 性乾院 本堂
真證寺 山門 真證寺 本堂 端坊 山門
端坊 本堂 端坊 鐘楼 端坊 山門の彫刻・・・見事です!
西覚寺 山門 西覚寺 本堂 杵築神社
常 妙 寺
境内の案内板によると、室町幕府を開いた足利尊氏公によって観応元年(1350年)に真言宗「常蓮寺」として建立されたようですが、天正年間に京都の立本寺の末寺として「日蓮宗 常蓮寺」となったようです。その後、明治4年頃に町内にあった妙泉寺が廃寺となったことで合併され、常蓮寺の「常」と妙泉寺の「妙」を一字ずつとって「常妙寺」と改められたとのことです。
境内に足利尊氏の腰掛石なるものがありました。足利尊氏が山口に来たのか?尊氏が腰を下ろした石を運んできたのか・・・・ま、事の真偽はともかく、伝説伝承というのは面白いものです。

性 乾 院
1468年(応仁2年)に真誉玄智上人により浄土寺として開かれ、毛利氏の家来だった三浦元忠が1613年(慶長18年)に毛利輝元(元就の孫)から兵庫頭と性乾院の法名を授かり、以後寺号を「性乾院」としたそうです。
1658年(万治元年)12月に類焼し、1664年(寛文4年)に再建されたと記録に残っているそうで、 1871年(明治4年)には「蓮台院」・「医王寺」・「長盛寺」を統合し、現在の性乾院となったとのことです。

端 坊
『山口県寺院沿革史』によると、松林山端坊は山口市と萩市に寺院があると書かれています。。
また、同資料の山口市の端坊の鐘楼の項目には、「正徳2年7月7日昼午刻を知らしめる事を命ぜられ年々百石を寄附せられたり、後十石に減ぜられて明治4年までこれを経続せり」との記述があります。時を知らせる役目を背負ったお寺だったようです。
山口の端坊に設けられた鐘楼堂は、 萩のものと同様に三間四方の二層瓦葺きとの記録が残っています(「防州吉敷郡山口
端坊時鐘之覚 享保七年 (写)」 県史編纂所史料734)。 時鐘も萩のものと同じ大きさで、 萩のものと同様に藩の鋳物師郡司氏が作ったと記録されていますが、戦時中の供出により現存していません。
山口の時鐘は、 萩藩第5代藩主吉元の帰国にあわせて始められるよう鋳造されたようですが、萩で作られた鐘が 「以の外おもく(もってのほか重く)」、 山口まで運ぶのに手間取って間に合わなかったため、 臨時に山口常栄寺の鐘を吊って殿様の通過時分だけ対応したとも記録に残っています。

なお、この地は、1604(慶長9)年まの7年間、ここにキリスト教の教会があったとされています。萩の指月城築城にあたり毛利輝元が山口奉行佐世元嘉(させ もとよし)の宿所に一時滞在、そのため佐世はここにあった教会を接収して自らの宿所としたとのことです。その後どのような経緯かは不明ですが、浄土真宗本願寺派の寺院となったようです。

杵築神社
境内の説明文(昭和37年に書かれたもの・・・・)によると、大国主大神を祀る神社で、後小松天皇の時代、応永年間、大内義弘公が建立されたと書かれていました。また、昭和25年のキジヤ台風によって、社殿の前にあった松の木が倒れ社殿が倒壊、昭和31年に再建されたとのことです。
神社は、楼拝殿の、名残のようなお社で、古熊神社(古熊天神)の御旅所にもなっています。

真 證 寺 ・ 西 覚 寺
この2つの寺は浄土真宗のお寺ですが・・・・寺の歴史などについて、まだ情報が収集できていません!
引き続き、文献等を探していきたいと思っています。