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瑠璃光寺 山門 |
瑠璃光寺 本堂 |
国宝 五重の塔 秋 |
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五重の塔 冬景色 |
五重の塔 ライトアップ |
「山口ゆらめき回廊」ライトアップ |
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毛利家墓所 ウグイス張り石畳 |
茶室 露山堂 |
薩長連合の密議場所 枕流亭 |
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保寧寺 瑠璃光寺 曹洞宗 本尊:薬師如来
室町時代に、京都を凌ぐ西国一の栄華を極めた大内氏。その全盛期の大内文化の最高傑作と言われる五重塔(国宝)のあるお寺です。京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものと並び日本三名塔の一つと言われています
この五重塔、ちょっと不思議な伝承があります・・・・五重塔といえば、通常なら仏舎利を納める建物ですが、この五重塔は大内義弘のお墓と伝えられているのです。応仁の乱で足利義満に敗れ戦死した大内氏25代義弘の棺が五重塔の下にあるとの口伝が残っているようです。確かめる方法はないのですが・・・・ロマンですね〜!
このお寺の場所は、大内義弘が「香積寺」という寺を建立。その後、関ヶ原の敗戦で減封された毛利氏が、萩に城下町を造るにあたって「香積寺」を引寺し、その跡地に当時仁保の地にあった瑠璃光寺を移転したと伝えられています。ただ、毛利氏は五重の塔までは解体移築できず残されたとのことです。その塔が今や観光の一番の目玉となっているのですから、山口市民にとってはラッキーだったと言えますね。
瑠璃光寺の境内は香山公園として整備され、明治維新当時の毛利家当主で「そうせい公」として有名な13代毛利敬親公などのお墓がある香山墓所があります。萩市の天樹院、大照院、東光寺とともに長州藩主の墓所で、「萩藩主毛利家墓所」の一部として国の史跡に指定されています。お墓への参道は、うぐいす張の石畳と言われ、石畳を強く踏みつけたり手を打ったりすると、「キュ」という音が返ってきます。そのほか、江戸末期に薩摩の小松帯刀や西郷隆盛などが山口を訪れ薩長連合結成の密議をした「枕流亭」、幕末に毛利敬親公が藩庁を萩から山口に移た際、藩庁内につくられたという茶室「露山堂」(茶室とは名ばかりで、その堂内では討幕の密議が行われていたとか・・・・)などが移築されています。
なお、これら香山公園、瑠璃光寺を含めて拝観料は無料です。京都や奈良などの古刹を訪ねると、行く先々で拝観料が必要ですが・・・・山口では数ヵ寺を除いて、基本拝観料は取っていません。よそから来られた観光客の方が、入り口で逆に戸惑っておられる姿を時々見かけます。TANUKI
は観光資源を守るという観点から、拝観料は仕方ないと思ってはいるのですが・・・・。
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国清寺時代の山門 国指定重文 |
山門の扁額「正宗山洞春禅寺」 |
中門 扁額は「玄通」 |
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洞春寺 本堂 |
観音堂・・・大内時代の遺産 |
庫裡に通じる門が鐘楼でした |
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正宗山 洞春寺(とうしゅんじ) 臨済宗 本尊:観世音菩薩
洞春寺は、上記の瑠璃光寺・香山公園に隣接している関係で、観光客の方からは目につきにくい(?)お寺かもしれません。
戦国武将毛利元就の菩提寺ですが、明治維新にも深く関わった場所で、境内の「のむら美術館」は維新の志士ゆかりの品などが展示されています。
このお寺は、先の瑠璃光寺同様・・・・いやそれ以上に毛利氏によって多くの変遷を辿らされたお寺です。まず、1404年(応永11年)、大内盛見(もりはる)の菩提を弔う国清寺がつくられます・・・・現在の山門(国指定重要文化財)はこの時代の物とのことです。元々、洞春寺と後述の常栄寺は、洞春寺は毛利元就・常栄寺はその息子骭ウの菩提を弔うために毛利氏の本拠地 吉田郡山城下(現在の広島県安芸高田市)にあったそうですが、関ヶ原の戦い後、毛利氏の防長二州への移封に伴い現在地に常栄寺が移り、国清寺を合寺。洞春寺は萩に移されました。寺は常栄寺として幕末を迎え、山口に藩庁が移転された時には武器などの貯蔵庫となっています。本堂の柱には第一次長州征伐の時の藩の対応に不満を持った藩士たちの刀傷が残っています。第二次長州征伐(四境戦争)の時は、長州藩諸隊の一つである井上馨を総督とする鴻城軍が一時駐屯したそうです。
1863年(文久3年)に常栄寺は宮野(現在の常栄寺)へ移り、明治維新後の1871年(明治4年)に萩から洞春寺がこの地へと移り、今に至っています。つまり、「国清寺」の時代が約200年。「常栄寺」となって約250年・・・・「洞春寺」としては約150年の歴史ってことのようです。
境内にある観音堂も有名ですが・・・・この観音堂も大内持盛(もちもり)が建立した「観音寺の本堂」→「勝音寺」→毛利氏の時代になって「大通院」→大正4年に洞春寺境内に移建・・・・と変遷を辿ったようです。
中門の学には「玄通」とありました。どういった意味か、調べてみましたら・・・・「老子」の「微妙玄通の聖人」が出典のようで、奥深く通じていること。また、奥深く果てしないこと・・・・という意味なんだそうです。
境内には児童養護施設「山口育児院」があります。TANUKI は子供の頃、このお寺を含む大殿校区に住んでいましたので、育児院から通ってくる友人もいました。中学校を卒業してから半世紀がたって・・・・みんなどうしているのか、懐かしい思い出です。
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龍福寺 山門 |
龍福寺 本堂 |
参道の紅葉は見事です! |
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瑞雲山 龍福寺(りゅうふくじ) 曹洞宗 本尊:釈迦如来
龍福寺(りゅうふくじ)は、大内氏の館跡に立つお寺です。周辺では、今も発掘調査が続いていて・・・・次々と、当時の遺稿が発見されています。境内には発掘された庭園が復元されています。
龍福寺というお寺は、大内氏によって創建され、別の場所にあったそうですが、陶晴賢により大内氏が滅亡した時に兵火で焼失したようです。大内氏最後の当主となる大内義隆は、長門の大寧寺で最後を迎えたのですが・・・・その後、毛利元就の長男・隆元により大内義隆の菩提寺として大内氏の館跡に再建されたと伝えられています。
しかし、この本堂は1881年(明治14年)に焼失。その再建に氷上山興隆寺の釈迦堂(室町時代に建立)を移築したと記録にあります。興隆寺は大内氏の氏寺で、釈迦堂はその興隆寺の本堂でもあったので、大内氏の財力を示すように柱や梁の材は巨大なものが使用された大建築です。
この本堂は、昭和29年に重要文化財に指定されましたが、雨漏りなどの老朽化も進んでいたため、平成18年から約6年をかけて、学術調査と保存修理が行われました。この保存修理によって、後世の改造部分を復旧して室町期当初の状態に復元されたそうです。
なお、龍福寺の参道は紅葉の名所として、秋には多くの市民や観光客が訪れています。
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常栄寺 山門 |
正面が「本堂」 右は「鐘楼門」 |
鐘 楼 門 |
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本堂前の「南溟庭」 |
本堂裏手 ここから庭を眺めます |
雪舟作と伝えられる庭 |
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香山 常栄寺(じょうえいじ) 臨済宗東福寺派 本尊:千手千眼観自在菩薩
寺の後庭は「雪舟等楊」の作と伝えられる庭で、「雪舟庭」として国の史跡および名称に指定され、山口を代表する観光名所になっています。
雪舟庭は、今から約500年前、大内政弘の別荘として、画僧雪舟に築庭させたものと伝えられています。別邸跡は「妙喜寺」となり、大内氏の没落後は毛利氏が、ここを山口出身であった尾崎局の菩提寺として寺名も「妙寿寺」と改名したそうです。
更に1863年(文久3年)、先の「洞春寺」に記載したように、現在の洞春寺にあった「常栄寺」をこの地に移転させたようで・・・・常栄寺というのは、元は安芸国吉田(現在の広島県安芸高田市)に毛利元就が息子隆元の菩提を弔うために建立した寺です。
寺号はいろいろ変わってはいますが、庭園はそのまま維持され続け、現在に至ったようです。現在の建物は大正の火災後に1931年(昭和6年)に再建されたと説明にありました。
常栄寺を訪れるのは20年ぶり・・・・TANUKI の母親が時々、流派のお茶会を常栄寺を会場に催していまして、その手伝いにかり出されていました。TANUKI
が中学生や高校生の頃も、友人との遊び場として、よく訪れていました。特に雪舟庭の裏山をのんびり歩くのが好きでした。確か毘沙門堂などのお堂がいくつかあったような記憶があります。
今回、久しぶりに訪れてみて・・・・お寺の内外がとてもきれいに整備されているのに驚きました。そういえば・・・・今まで拝観料なるものを払った記憶がないのですが・・・・きれいに整備して観光客にも喜んでもらうためには、それなりの費用もかかりますものね・・・・。
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宝篋印塔(ほうきょういんとう) |
石山観音堂 |
庚申塚やお地蔵さんなど |
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石山観音堂(せきさんかんのんどう) 本尊:聖観音菩薩立像(木造)
堂内には、聖観音立像、不動明王、毘沙門天、千体地蔵菩薩が祭られているようです。
聖観音は大内弘世の奥方の念持仏と伝えられています。大内弘世は現在の山口県を中心とする一大勢力を築き上げた大名で、現在の山口市を京都に倣った町づくりをし、後の大内文化に繋がる基礎を築いたとされています(最近の発掘調査の結果、弘世の時代には、まだ都市化されてなかったのではと言う説もありますが・・・・)。また、京から迎えた姫君を慰めようと、山口の特産物である大内人形を作ったり、一の坂川を京都の鴨川に見立てて、宇治のゲンジボタルを取り寄せ、放したと伝えられています。
TANUKI は外から、ガラス越しにしか拝観することしかできていませんので、聖観音さん不動明王さん毘沙門天さんは確認できていますが、千体地蔵さんは実際にお目にかかれていません。堂の一角には立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)や庚申塚、お地蔵さんや江戸期と思われるお墓などがひとまとめに並べられていました。
このお観音堂については、浄土宗「善生寺」住職浄誉天髄が地元の古老の口実を聞き取り、書き取った文書を「善生寺」16世寛誉嶺光が文化8年(1811)に書き改めた「周州吉敷郡山口庄竪街
観音堂縁起」という文書が残っているそうで、それによると、大内氏24代大内弘世が康暦2年(1380)に下竪小路に楼閣を建立し、大内氏北廰の持仏聖観世音菩薩を奉安。しかし、永禄12年(1569)大内輝弘が豊後より山口に乱入した折に観音堂は焼失。本尊と厨子(大内菱の紋あり)は焼け残り、その後、里人は力を合わせて観音堂のあった場所に小堂を造り、本尊を奉安したと書かれているそうです。
この観音堂は、今でも地域の方々によって守られています。
現在の観音堂は、廃屋同然になっていたものを取り壊し、平成25年(2013)建立したものとのことです。
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この「石山観音堂」のすぐ横に「山口ふるさと伝承総合センター」があります。ms.TANUKI が友人に大内塗りの箸をプレゼントしたいと言いますので、職人さんが大内塗りの政策の様子を実演しておられ、販売もしておられるので行きました。その時、観音堂がすぐ裏にあることを知り、写真を撮ることができました。
また、センターに「昭和の道具」を展示しているコーナーがあることを知り、TANUKIの祖父母の旅行用トランクや太平洋戦争当時の遺物(?)を寄贈しました。 |
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神福寺 本堂 |
神福寺 観音堂 |
鐘楼・・・鐘はありませんでした |
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西高野山 神福寺 (旧称 日輪山 神福寺) 真言宗御室派 本尊:十一面観世音菩薩
室町時代の守護大名「大内弘盛」が建久年間(1190年代)に創建した真言宗のお寺。当初は「神宮寺」と号していたようですが、後に「大内広家」によって再建され「日輪山神光寺」と名称が改められたようです。
1499年(明和8年)、京都を追われた将軍足利義稙(あしかがよしたね:室町幕府8代将軍「足利義政」の弟の子)が大内氏を頼って山口に来たときに、この寺を居館としたと伝えられています。
時代が明治と代わり、明治3年に「長久山平蓮寺」と、大正5年には岩国の「妙福寺」と合併し、現在の「神福寺」に寺号を変更、昭和4年に山号も日輪山から「西高野山」に変わっています。
このお寺で注目すべきは本尊の秘仏「十一面観世音菩薩」像(国の重要文化財)です。
まず寺伝にはこう書かれているそうです
「大和長谷寺の十一面観音を尊崇していた大内政弘公が宮野初瀬の地に堂宇を建立し、蜘蛛山生福寺としました。後に、この堂は焼失してしまいます。とりあえず仮の草堂を建立すると、一人の旅の老僧が現れ、十一面観音立像を託して、また行脚の旅へ出てしまい、戻ることはなかった。この観音像はかなり古いものであり大内家の紋があったという…。」
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さらに 山口県教育委員会と山口市教育委員会の説明看板もありましたが、それらを要約すると・・・・大正6年に国の重要文化財に指定された木造十一万観音立像で、唐代の作と考えられる。サクラもしくはクス材による一木造りで、衣紋や胸飾、さらに体全体に掛っている瓔珞(ようらく)などが、極めて細かく、精巧に彫られている。十一面観音の頭上の十一面ある化仏の多くが脱落していて、わずか五面が残るのみである。両手の指先が欠損、鼻頭や口辺が破損している。もとは山口の泊瀬(はせ)観音堂の本尊であったが、観音堂の荒廃にともない、神福寺に移された・・・・ということのようです。
TANUKI が気になっているのは、この観音像を託した老僧とは・・・・実は、記憶が曖昧なのですが「唐招提寺」の何かの記述に、鑑真さんかそのお弟子さんが唐から持ってきた仏像を周防国の寺に安置したというようなことがあったような・・・・出典等、全く不明ですが、そう考えると何だか素敵ですね。
十一面観音さんは秘仏で、30年に一回、御開帳されるとのことですが・・・・お会いしてみたいものです!
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